当店初代店主、土屋實幸は2015年3月24日に73歳で永眠いたしました。その際、共同通信より追想記事(追想メモリアル)が配信され、山形新聞(4月25日付)をはじめ、全国各地の新聞にご掲載いただきました。心より感謝いたします。

泡盛百年の古酒の夢を追い求めた居酒屋主人
土屋實幸(つちや・さねゆき)さん

「僕が生きているうちに、100年間寝かせた琉球泡盛を飲めるなんて、本当に夢のようだよ」

追想・土屋実幸さん、山形新聞 001.jpg明治の末、沖縄から本土の講談社を創業した野間清治邸へ贈られた王室の酒。昨年春に故郷に戻ったその古酒を口に含んだ際に見せた、ふっくらした笑顔が忘れられない。

沖縄が本土に復帰した1972年の8月15日、那覇市内に小さな居酒屋「うりずん」を開いた。米軍統治下で高級洋酒ブームに沸き、泡盛は安酒として飲食店ではカウンターの下に隠した。

しかし、約600年もの歴史を誇る民族の酒。「オキナワの心を失ってはいけない」と県内57カ所にあった酒蔵を1軒ずつ訪ねて泡盛を集め、その魅力を訴えた。

開店後数年は閑古鳥が鳴いていたが、「優しさに勝るものはないよ」が口癖の人柄に引かれ、椎名誠さんら多くの文化人も訪れるようになった。

いつも脳裏にあったのは、二度と戦争を起こしてはいけないという強い思いだ。沖縄戦では12万人もの県民が犠牲になり、300年を超える泡盛の古酒も貯蔵されていたが、大半が失われた。97年に泡盛の古酒を100年後に残す活動を始めたのも、永遠の平和を願ってのことだった。

最大の理解者は69年から「醸界飲料新聞」を発行する仲村征幸さんで、「泡盛は県民の文化遺産」が編集方針だった。洋酒が全盛の時代にウイスキーを飲みながら泡盛が売れないことを嘆く蔵元を大声で叱りつける、気迫の人物。「オットー」と呼び慕ったが、その盟友も1月9日に83歳で天上へ旅立ったばかり。

沖縄では現在、泡盛を世界無形文化遺産に登録しようという動きが起きている。辺野古の埋め立て反対で見せる人々のエネルギーを、この問題にも注ぎ、2人の郷土愛に応えてほしい。

(上野敏彦)

=3月24日、73歳で死去

山形新聞(2015年9月7日)、神戸新聞(8月9日)等で配信されました「ゼロからの希望・沖縄戦と泡盛(文/共同通信・上野敏彦編集委員)」文中にて、当店をご紹介いただきました。

『ゼロ希望』沖縄戦と泡盛、山形新聞 001.jpg沖縄戦が終結した、慰霊の日である6月23日。那覇市首里の緑豊かな丘に立つ健児之塔―。うだる暑さの中、旧制第一中学(現県立首里高)の戦没者追悼式に出席した与座章健(86)は、同窓生を見つけると「元気でやっているか」「まだ頑張ろうな」と言っては、握手を交わしていた。

太平洋戦争末期に「鉄の暴風」と形容された米軍の艦砲射撃や空爆を受け、県民の4人に1人が犠牲になった沖縄戦。与座は16歳で鉄血勤皇隊に動員され、軍隊の不条理を味わった。

米軍の上陸から3週間後の1945年4月20日前後の夜、首里城の地下司令部に配属されていた与座は上官から「酒造所へ行って泡盛をくんでこい」と命令を受けた。

米軍の襲撃におびえならが勤皇隊の3、4人と空の石油缶を二つつるした天びん棒をかついで酒蔵へ。缶に泡盛を満たして地下壕(ごう)へ戻る途中、頭上で「バーン」という音とともに砲弾がさく裂し、一目散に逃げて帰った。

「泡盛の大半は流れてしまったが、暴力をふるう上官になんと報告したか覚えていない。ただ、酒のために命を失ってどうするのかと腹が立った」と与座は当時を回想する。鉄血勤皇隊の少年たちは上官の命令で壕に逃れていた住民を追い出したり、食料を盗んだりとあらゆることをさせられた。与座も泡盛調達を命じられた10日後に「おまえたちに食わせる食料はない」という理由で、突然除隊させられた。

砲火が飛び交う中、家族と合流した与座は野山に逃避行を続けたが、飢えと疲労で6月14日に米軍へ投降した。捕虜収容所で見たのは重装備の大型戦車で、「ブリキのおもちゃのような日本軍の戦車で勝てるわけがない」と思い、涙を流した。

8月15日には米軍の打ち上げる祝砲で日本の無条件降伏を知ったが、負けて悔しいと思う余裕すらなかったという。

与座たちが命がけで手に入れてきた泡盛は、米と黒こうじ菌で造られるが、米軍の猛爆で数十軒もあった首里の酒蔵はすべて灰じんに帰した。

半年後に米軍の収容所から首里に戻った咲元酒造二代目の佐久本政良は、焼け跡で酒造りに使っていた1枚のむしろを見つける。「もしかして…」と蒸し米にその繊維をほぐしてまぶすと、緑がかった黒色に変色した。「黒こうじ菌が生きていた、と祖父は涙を流して喜んだそうです。近くの蔵にも分けて、泡盛づくりが再び始まった」と語るのは孫の四代目で杜氏(とうじ)を務める啓(57)だ。

政良はその後も泡盛業界で後進の指導を続け、87年に97歳で大往生を遂げたが、命脈が保たれた泡盛は受難の時期も。米軍の統治下では高級ウイスキーが安く飲めたためで、「においが強い泡盛は下等な酒」としてカウンターの下に隠す飲食店もあったほどだ。

こうした流れに「沖縄の泡盛は600年も続く文化遺産。オキナワの心を失ってはいけない」と訴えたのが、仲村征幸と土屋實幸だ。「醸界飲料新聞」発行人の仲村は今年1月に83歳、居酒屋「うりずん」を営む土屋も3月に73歳でなくなっている。

沖縄が日本に本土復帰した72年の8月15日に、那覇市内で「うりずん」を開業した土屋は、県内にあった57蔵の泡盛すべてを取りそろえ、地酒の普及に力を入れた。当初閑古鳥が鳴いていた店も、本土からの文化人も顔を見せるようになり、次第に繁盛していった。

あの戦争で300年も熟成させてきた古酒もすべて失われた。「戦火に巻き込まれると古酒はできない」と考えた土屋は、泡盛を100年後に残すために平和を守ろうという運動を始めた。

土屋に励まされた蔵元の一人、宮里酒造所の宮里徹(57)は那覇市小録で「春雨」という酒を醸す。蔵の近くには海軍司令部の地下壕があったため、米軍の猛爆を受け、今でも不発弾が地中から出てきては騒ぎになる。

「春雨の春は希望、雨は恵みを意味する。のどかな沖縄に戻ってほしい、そんな気持ちで父は戦後酒造りを始めました」

沖縄では今、泡盛の世界無形文化遺産登録への動きが起きているが、宮里は「平和を求める先輩たちの苦労が結実するよう、実現してほしい」と願う。

戦後は公務員と金融機関の役員の人生を歩んだ元鉄血勤皇隊員の与座。「あちこちで泡盛が造られ、皆が喜んで飲む。太平な時代が訪れたと思う。愚かな戦争を二度と起こしてはならない」

安部晋三政権が安全保障政策を大きく転換しようとする戦後70年の夏。追悼式で代表あいさつに立った与座の表情には気迫が満ち満ちていた。(敬称略)

 鉄血勤皇隊とはーー太平洋戦争末期の沖縄戦に備え、陸軍司令部は1945年3月、14歳から17歳までの旧制中学や師範学校の生徒約1800人を第32軍に配属した。兵力不足が深刻化する中で、法令を改正して沖縄では兵役の対象年齢を14歳以上に引き下げた。
 前例のない措置に内務省から憲法違反を指摘する声も出たが、地域を限定しての 防衛召集 という形で強行。少年たちは十分な訓練も受けないまま戦場に駆り出され、陣地構築や伝令のほか、爆薬を背負い米戦車へ突撃を命じられた者もいて、約900人が命を落した。
 大田昌秀元知事も勤皇隊経験者。日本政府が少年を戦場へ送ったことを公式に認め、軍人として補償対象としたのは56年になってから。経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言した年のことだった

(山形新聞2015年9月7日より)